清らかな少女の膝に甘える一角獣….。なんとも愛らしく、微笑ましい情景です。背後には、自然そのままというよりも、理想的な美しさに再構築したかと思われる風景が心地よく広がり、ドメニキーノの中にある“完全な美”への理念が確実に伝わってくるようです。
しかし、よく考えてみれば、これは現実にはあり得ない光景です。一角獣は、西欧が生んだ架空の動物であり、中世の動物寓話集には、5世紀頃の逸名ギリシア人作家フュシオロゴスの著作から、「かくて、われらが主イエス・キリストは神霊の一角獣と化して、処女マリアの子宮の中に降りていった」と書かれているほどの存在だったからです。一角獣は、触れた者を浄化する力を秘めた角を持っていて、彼を捕らえることができるのは、穢れを知らない乙女だけと言われています。フュシオロゴスによれば、少女に頭をもたせかける一角獣は、キリストの受肉を象徴した姿だということですから、この作品はまさにその言葉を体現したような絵画と言えそうです。少女の背後には豊かな水をたたえた泉が見てとれますが、一角獣は時に、角を泉に浸す姿で描かれます。それは、水によって象徴される聖母マリアの神秘的な浄化であるとも言われ、深く見ていくと、この作品には単なる風景ばかりでない、象徴的な謎がたくさん秘められていそうな気がします。
ところで、この作品を眺めているうち、ふと、似た雰囲気を持った画家が思い浮かびます。それは、自然に基づきながらも理想美によってそれを補う古典主義的な様式を確立したアンニーバレ・カラッチ(1560-1609)です。美しい光と現実に即した色彩は、奇跡の場面であっても眼前の出来事のような親しみと実感をもたらしましたが、そんな古典主義を継承し、推し進めたのがドメニキーノをはじめとした画家たちだったのです。
ドメニキーノ(1581-1641)は、カラッチ一族に続く世代としては、最も重要な画家の一人でした。本名はドメニコ・ザピエーリといい、ボローニャでカラッチ一族に学んだあと、アンニーバレ・カラッチの後を追うかたちでローマに移住し、このファルネーゼ宮のガッレリーア壁面装飾で師の仕事を助けました。彼のフレスコ画家としての活躍はめざましく、ローマやその近郊を中心として多くのフレスコ画連作に携わっています。確かに、彼の持つ透明感、みずみずしさはフレスコ画の持つ特性にとても合っていたことでしょう。聖なる理想的な風景の中で、少女と一角獣は心から安らいでいるようです。
ところで、この作品のあるファルネーゼ宮は、1543年にローマ法王パウロ3世となったアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の命で造られた宮殿です。盛期ルネサンスを代表するパラッツォ(邸宅)建築で、現在はフランス大使館として使用されています。そのようなわけで、見学にはフランス大使館の許可が必要となるようです。着工は1517年ですが、ミケランジェロや建築家ジャコモ・デッラ・ポルタらの手に引き継がれながら、1589年に完成したという歴史的で壮麗な宮殿なのです。なお、一角獣は、名門フェルネーゼ家の紋章でもありました。
★★★★★★★
ローマ、 ファルネーゼ宮殿 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎名画の見どころ読みどころ―朝日美術鑑賞講座〈3〉/17世紀バロック絵画〈1〉
朝日新聞社 (1992-04-30出版)
◎西洋絵画の主題物話〈2〉神話編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-30出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)