なんと痛々しいキリストでしょう。思わず顔をそむけたくなる姿です。しかし、ひたすら涙を流しながらも、聖母マリアは我が子の姿をしっかりと見つめています。彼女には、それが神の言葉を受け入れた時から一貫して保ち続けた覚悟の証なのかも知れません。どのようなことがあっても、我が子を正視し続けること。それが私の役目なのだ、と納得しているのでしょう。すべてを黙って受け容れることの美しさが、聖母を描く画家たちをして永遠の女性像を描かせるのかもしれません。
「悲しみのキリスト」というのは、そうした物語を描いたものではなく、ゴシック後期に現れた礼拝の対象としてのキリストの図像、祈念画の題名なのです。キリストは開かれた墓の中から立ち上がり、左手には受難の刑具を抱き、五つの聖痕を見せながら全身から血を流しています。いばらの冠を被った姿は磔刑図を彷彿とさせ、涙を流す聖母とともに、これはピエタの主題の一つの変種であるとも言われています。
ところでこの作品は、金地を使った豪華なものですが、嘆き悲しむ聖ヨハネ、マグダラのマリア、そして天使たちも描き込まれ、強い感情の表現が読み取れます。さらに、人物が思いきりよく切り取られているあたりも斬新で、この画家の豊かな才能を感じさせるのです。
ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(1460頃-90年頃)は、15世紀オランダのハールレムを拠点として活躍し、現在も作品が残されている数少ない画家の一人です。28歳くらいで夭折していますが、光の扱い、構図法に若いときから個性的なひらめきを見せていました。この祈念画に見られるシャープなトリミングも、彼の才能の現れだったでしょう。後のボッスによる『十字架を担うキリスト』と造型的に似たところがあるとの指摘もありますが、痛々しい悲しみのキリスト像ながら、そのほっそりとした人形のような表現にふと“かろみ”のようなものを感じてしまうのが不思議です。このあたりは、奇跡でさえも大仰な身振りを用いず、平明に処理したハールレム出身画家に共通した特徴を見出すこともできます。
16世紀の宗教改革によって、改革派の過激な信徒たちによる聖像破壊運動が起こり、特に北部オランダ地方では祭壇画などの破壊が続きました。そのため、現存する15世紀オランダの作品がどうしても少ないなかで、ヘールトヘン・トット・シント・ヤンスのような優れた画家の美しい作品が残されていることは、本当に幸運なことに思えます。
★★★★★★★
ユトレヒト(オランダ)、 国立カテリーナ修道会美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎新約聖書
新共同訳 日本聖書協会
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)