キリストの弟子であり、「富める人」と称されたアリマタヤのヨセフは、キリスト磔刑のあと、ピラトに乞うてその遺骸をもらい受け、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納めて帰りました。そしてその後には、マグダラのマリアと他のマリアが墓に向かって坐っていたといいます。
マグダラのマリアは、一人残ってひたすら泣き続けました。やがて泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えたのです。天使たちは尋ねます。
「婦人よ、なぜ泣いているのか」。
マリアは驚き、
「私の主が取り去られました。どこに置かれたのでしょう」
と言い、後ろを振り向きました。すると、そこにはまさにそのイエスが立っていたのです。
イエスは、尋ねます。
「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」。
マリアはそれがキリストとは気づかず、園丁であると思い込んでいました。ですから、
「あなたがあの方を運び去ったのですか。どこに遺体を移したのか、教えて下さい。私があの方を引き取ります」
と懇願しました。
そこでイエスが、
「マリア」
と彼女の名を呼びました。マグダラのマリアは
「ラボニ」
と答えました。それは「先生」という意味です。
イエスは、マリアに言いました。
「ノリ・メ・タンゲレ(わたしに触ってはいけない)。まだ父の御許に上っていないのだから。あなたはわたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしはこれから、わたしの父であり、あなた達の父である方、またわたしの神であり、あなた方の神である方のところへ上る』と」。
もちろん、この場面には、二人の姿だけが描かれているのが普通です。ルネサンス以降、本当に多くの画家がこの神秘的で美しい場面を描いていますが、そこに共通するのは、キリストがマリアの差し伸べる手から静かに身を引いていることです。そして、マグダラのマリアがキリストを初めに庭師と間違えたというヨハネ福音書の記述を受けて、鍬を持っていることも特徴的です。ティツィアーノやコレッジオの劇的で情感あふれる表現は、その場の雰囲気を印象的に伝えるものでしょう。
しかし、信仰心篤いフラ・アンジェリコは、キリスト復活の基盤となったこの象徴的な場面を、彼らしく、本当に清らかに静かに、大仰でない優しさをもって描いています。マリアの顔もキリストの表情も柔和で穏やかで、この奇跡が余りにも自然に行われたことなのだと見る者をして納得させます。控え目に伸ばしたマリアの両手は、決してキリストにすがりつこうとするようなものではなく、まるで地上に回帰したイエスを送り出す母のようなやさしさで差し伸べられています。このような表現にも、フラ・アンジェリコ自身のひととなりが画面を包み込む光となっているようです。そして画家は、奇跡が決して稲妻を伴って起こるものではなく、暖かい陽の光の中でひっそりと、それと気づかないほどのさりげなさで行われることを知っていたのかも知れない、と思わせてくれるのです。
この作品は、フィレンツェのサン・マルコ修道院がドミニコ会の手に移って改築されたときに、フラ・アンジェリコと彼の助手たちによって描かれたフレスコ連作のうちの一作であり、2階僧房の第1室を飾るものです。現在は美術館となっているこの修道院の修道士であった画家の、共同体における宗教体験が具現化されたものと考えてもいいのかも知れません。
赤い十字は、救世主復活を意味します。中世後期以降、このしるしはキリストの持つ旗で表現されるものでしたが、天使のような画家フラ・アンジェリコは、主の頭部に輝く光輪に可愛らしく、その意味合いを込めるにとどめています。
★★★★★★★
フィレンツェ、 サン・マルコ修道院 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎イタリア・ルネサンスの巨匠たち―素描研究と色彩への関心〈10〉/フラ・アンジェリコ
ジョン・ポープ=ヘネシー著 東京書籍 (1995-02-24出版)
◎フレスコ画のルネサンス―壁画に読むフィレンツェの美
宮下孝晴著 日本放送出版協会 (2001-01-30出版)
◎新約聖書
日本聖書協協会
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)