人というのは残酷なものです。直前までは応援の歓声を上げていた観客が、彼が相手の一撃によって倒され、2本の指を上げて慈悲を懇願しているのを見た途端、今度は親指を下に向けて「殺せ、殺せ」と声を上げます。その熱狂は周囲の困惑やわずかな悲しみを圧倒し、観客の審判を待つグラディエーター(闘技士)に対し、とどめの時を渇望するのです。
古代ローマの闘技場は、社会的にも文化的にもとても重要な役割を果たしました。最も有名な闘技場はフラヴィウス円形闘技場、現在では「コロッセオ」の名で知られています。紀元70年から80年にかけて、皇帝ウェスパシアヌスとその息子ティトゥスによって建設されました。巨大な円形闘技場には最大で約5万人以上の観客を収容することができ、観客は円形の座席から闘技の様子を観ることができました。
ここで上演されるのは、この作品に見られるようなグラディエーター戦や猛獣との戦い、また海戦の再現などでしたが、豪華な見世物、祭りが開催されることもありました。
皇帝や支配者は、闘技やイベントを通じて民衆の支持を得る必要があったのです。彼らは密かに、これを「パンとサーカス」と呼びました。つまり貧困層や市民の不満を抑えるために、無料の食料(パン)や娯楽(サーカス)を提供したわけです。それが民衆のガス抜きの役割を果たしました。だからこそ、ここに描かれたように、観客はふだんでは考えられないほどに熱狂し、時には残酷な結果、血を見ることをも望んだのです。それが支配者の狙いでした。
ところで、ここに出場するグラディエーターは戦士としての訓練を受けた奴隷だけでなく、戦争捕虜、犯罪者などが多く、彼らは命を賭けて戦いました。特定の武器や防具を使い、戦いのスタイルも多様でした。戦闘は技術を見せるものであると同時に、観客を楽しませるパフォーマンスの要素もあったのです。
ただ、戦いの結果はどうあれ、一番重要なのは観客の反応でした。古代ローマでは、観客が親指を下ろしたり上げたりするサインによって、勝敗だけでなく戦士の生死も決まることが多かったのです。この作品では興奮した観客の下げた親指によって、足下の兵士の死が決まろうとしています。
この衝撃的な作品を描いたジャン=レオン・ジェローム(1824年5月11日 – 1904年1月10日)は、19世紀フランスのアカデミー美術を代表する画家であり彫刻家でした。彼は歴史画、そして東方(オリエント)の描写を得意としていました。この恐ろしい、目をそむけたくなるようなテーマであっても、ジェロームの筆跡を感じさせない滑らかな絵肌と選び抜かれた美しい色彩によって、鑑賞者はどこか安心してこのリアリティーあふれる画面を正視することができるのです。単なる歴史的な再現ではない、当時の社会的背景までも深く理解できる作品となっています。
ジェロームは17歳のときにパリへ出てポール・ドラローシュのもとで学び、ドラローシュのイタリア旅行(1844年 – 1845年)にも同伴しました。フィレンツェ、ローマ、ヴァチカン、ポンペイを訪れましたが、熱病にかかり1844年に帰国を余儀なくされ、パリに戻った直後にシャルル・グレールの画塾に移籍し、そのあとパリ国立美術学校に入学しています。
技術を向上させ、一躍有名となったジェロームはローマ賞獲得の夢は諦めて、新たな主題で次々と作品を発表していきました。そして特筆すべきは1852年、ナポレオン3世の美術総監ニューヴェルケルク伯爵の注文による歴史画大作「アウグストゥスの時代」を制作しました。これはキリスト生誕の場面と、ローマ帝国に征服された国々がアウグストゥスを表敬訪問する場面を組み合わせた絵画でした。この作品で支払われた多額の頭金によって、数回にわたる東方への旅が可能となり、同時代の異文化圏を主題とする美しく印象的な風俗画を描き始めるきっかけとなったのです。
ところで、ジェロームは生前と没後で大きく評価の変わった画家の一人と言われています。多くの弟子を育て、美術アカデミーで中心的な人物として君臨しましたが、新しく登場した印象派をひどく毛嫌いして激しい言葉で攻撃したため、死後は反アカデミズムの時代背景のもと、その評価は下落してしまったのです。
しかし、ジェロームは驚くほどの仕事を華麗にこなし、困難な社会的主題にも果敢に挑戦した類まれな実力を持った画家でした。アトリエで制作中に80歳で息を引き取りましたが、彼の死を悼んで行われたミサには前大統領や著名な政治家、芸術家、作家が多数列席したといいます。彼の輝かしい業績は、その見事でこの上なく繊細な絵画とともに、現在改めて愛されています。
★★★★★★★
アメリカ南西部、フェニックス美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(美術出版ライブラリー 歴史編)
秋山聰(監修)、田中正之(監修) 美術出版社 (2021-12-21出版)
◎改訂版 西洋・日本美術史の基本
美術検定実行委員会 (編集) 美術出版社 (2014-5-19出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」
木村 泰司 著 ダイヤモンド社 (2017-10-5出版)
◎超絶技巧の西洋美術史
池上 英洋, 青野 尚子 著 新星出版社 (2022-12-15出版)