一瞬、キリストがスパイダーマンになってしまったのかと錯覚しそうな不思議な壁画です。ちょっと気持ち悪い絵柄かもしれません。しかし、これは「キリストは葡萄の木」という福音書の言葉をそのまま再現した壮大な作品なのです。
ヨハネによる福音書15章1~5節には次のように語られています。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。 しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。
この言葉どおり、キリストの手は葡萄の枝となり、聖母や聖人たちをメダルのように囲みながら伸びているというわけなのです。キリストの左右には聖女バルバラの物語が左から絵巻物のように順を追って描かれており、ロットの非凡な想像力に圧倒されるような壁画となっています。
この非常に印象的な、そしてある意味奇矯な壁画は、ベルガモ近郊トレスコーレのスアルディ礼拝堂内の正面向かって左壁一面に堂々と描かれています。わずか6畳ほどの小さな礼拝堂ではありますが、ロットの最高傑作であり、北イタリアのルネサンス美術を代表する壁画の一つとして知られています。画家は1513年以降、ロンバルディアの都市ベルガモに長期滞在しており、この時期は特に多くの作品を手がけています。画家が一番乗りに乗っていた、そして幸せだった時期の大作とも言われています。
ベルガモの貴族バッティスタ・スアルディ伯爵の広大な敷地の一角に建てられた礼拝堂の内部を、ロットは独特なフレスコ画で満たしました。まさに「満たした」という表現にふさわしい世界です。多くの壁画や絵画、礼拝堂を見なれてきた人々にとっても、ここは別次元の空間かもしれません。この左壁だけでなく、天井にはプットーたちが森の中に戯れ、向かって右側の壁には「聖女ブリジーダの生涯」、入り口のある壁には「アレッサンドリアの聖女カタリナとマグダラのマリア」が描かれているのです。息つく暇も与えない聖人・聖女たち、そしてヴェネツィア絵画に独特の豊かな色彩の洪水です。見る者をして、「あらがえない」感覚を喚起させるに十分な圧力なのです。
とても複雑な個性を持った画家ロレンツォ・ロット(1480年頃 – 1556年)は、盛期ルネサンス美術の異才として確固たる評価を受けています。ルネサンス美術の中心都市ヴェネツィアに生まれながら、若いころから故郷を離れ、トレヴィーゾ、レカナーティ、ローマなどの各地を遍歴し、ロレートにたどり着いた後、貧困のうちに世を去っています。
そのためかロットの作品にはそれぞれの地域性が取り込まれ、作風は時期によって揺れ動いています。同時代の華麗な絵画に同調することを嫌ったのかもしれません。またはロット自身の定住を嫌う放浪癖と気質が、多様な作風の土台となったとも言えそうです。数多く残された書簡や日記のような帳簿からも、不安定な精神状態と感受性の鋭い画家の姿が浮かび上がってくるのです。
ロットの作品には、ほかのヴェネツィアの画家たちのような陽気さはありません。ときに奇矯とも見えるロットの魅力は、もっと内的で曖昧なものだと言われます。しかし、ここに見られるような動的な個性こそ、実はロレンツォ・ロットその人なのかもしれません。
やや不安げな表情で両手を広げるキリストは既に宙に浮き、聖人たちとつながり、全ての実を結ぼうとしています。先のヨハネによる福音書でイエスの言葉はさらに続きます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。漂泊の画家ロット、あえていつもルネサンスの中心にいなかったロット、貧しさの中、修道院で最期を迎えたロットは、実は常にキリストのこの言葉に支えられて仕事を続けたのではなかったかという気がします。みずからもキリストにつながる枝となることで、豊かな実を結ぶ日が必ず来ると信じたのではなかったかと思えてならないのです。
★★★★★★★
トレスコーレ、 スアルディ礼拝堂 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ、宮下規久朗編 日本経済新聞社 (2001-02出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也訳 講談社 (1989-06出版)
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄 (著、監修) 小学館 (2008-10-24出版)