春を迎えた優しい空気がほんのりと伝わってくるような、穏やかな作品です。
後景の小高い丘に建つ家々と手前の花咲く木々がつくるピラミッド型の堅牢な構図ですが、ピサロらしい細やかなタッチがその印象を和らげてしまいます。かすむ大気に花の香りが立ち込め、春の訪れ、その喜びがひたひたと伝わってくるようです。決して派手な色彩を使っているわけではないけれど、それがまた、いかにもピサロらしく、みずからのあふれるような感性に、行き過ぎることのないようにと、ひそやかにブレーキをかけているようにさえ感じられるのです。
カミーユ・ヤコブ・ピサロ(1830-1903年)は、西インド諸島のセント・トーマス島から、1855年、画家になるべくパリにやって来ました。もともと、コローやドービニー、クールベの風景画に影響を受けたピサロは、パリ郊外の田園地帯で制作することが多く、パリ市内のアカデミー・スイスにも通うようになり、ここでモネやセザンヌと知り合っています。親の意向もあって、ピサロは、サロン(官展)への応募を繰り返しました。しかし、伝統にそぐわない絵画であるとして、落選が続きます。そのため、シスレー、バジール、ルノワール、モネらとともに、新しいグループ展の必要性を語り合うようになっていきました。
普仏戦争ののち、一時避難していたロンドンから戻ったピサロは、パリ郊外のポントワーズに居を構えました。そして、ピサロを父とも慕うセザンヌを呼び寄せ、ともに制作することも多かったようです。ピサロの目は、パリ郊外のブルジョワたちを描いたモネやルノワールたちとは逆に、農民たちが立ち働く田園にこそ向けられていたのです。そんな彼の影響で、セザンヌもまた自然への深い興味とともに、明るい色彩を獲得することになるのです。
実は、この作品を描いたときも、ピサロはセザンヌとイーゼルを並べていたと言われています。二人は同じ風景を描いたのです。ところが、セザンヌは筆が遅く、手前にある花咲く木を描き上げることができませんでした。そのため、だいぶ趣の違う作品となったに違いありません。
穏当な風景画からは考えられないほど、反体制的な発言も多かったと伝えられるピサロでしたが、制作への態度もまた、ひたむきなものだったことが感じられます。
1866年に、パリ郊外のポントワーズを発見したピサロは、1872年にここへ移り住み、1883年までこの地を拠点に制作を続けました。産業革命に伴う工業化、急速な近代化の波を受け入れながらも、ピサロの目は、いつも美しい自然、明るい光に向けられていたのです。
★★★★★★★
パリ、 オルセー美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社(1989-06出版)
◎印象派美術館
島田紀夫著 小学館 (2004-12 出版)
◎印象派
アンリ‐アレクシス・バーシュ著、桑名麻理訳 講談社 (1995-10-20出版)