だれもが愛し、親しみを持ち続けるこの作品は、農民生活の画家ジャン・フランソワ・ミレー(1814-1875年)の代表作です。一日の労働を終え、感謝の祈りを捧げる夫婦の上には、やさしい夕暮れが落ちようとしています。
フランスの人々はこの作品を愛しました。1860年に1000フランで売却されて以来、所有者が次々に変わりましたが、その値段もぐんぐん上がっていきました。58万フランでアメリカに渡ったあと、フランスの百貨店社長によって80万フランで買い戻されたときには、国じゅうが歓呼をもって迎えたといいます。この絵の持つ感傷性が、素朴な信仰を忘れた都会の人々の心を、しっかりととらえたのかもしれません。
ミレーの祖母は、信仰篤い人でした。フランス北西部の村グリュシーに夕闇が迫るころ、彼女は畑仕事の手を休め、死者のためにアンジェルス(天使)の祈りをするようにと孫に教えました。幼いミレーは小さな手を合わせ、おそらくは祖母の言葉に従ったことでしょう。
長じて、政情不安定なパリを避けてバルビゾンに移住したとき、近郊のシャイイ平原を背景として、画家はその思い出を描きました。夕暮れの村に鳴り響く鐘の音が、はっきりとこちらにも聞こえてくるようです。1887年にパリで開かれた回顧展では、この絵の前で多くの人々が涙を流したと言われています。鑑賞者の心にも、鐘の音が響いたのでしょう。ミレー自身、絵画の中に音の存在を意識していたといいます。
さらに、この絵の美しさの秘密は、独特な地平線の描き方にあります。広大で、終わることのない人間の営みを感じさせるミレーの地平は飽くまでも神々しく、女性と男性の間にある彼方は微かに盛り上がり、私たちは永遠に続く円環運動のただ中にいるような目眩を覚えるのです。そして、二人の人物の頭部は地平線近くに置かれ、自然と神とともに生きる人々の敬虔な魂を実感させてくれるのです。
ところで、この作品には、新たな発見による更なる解釈が存在します。X線写真によると、祈る男と女の間には何か別の図形が映っており、シュルレアリズムの画家ダリはこれを、夫婦の死んだ息子の柩であると考えていました。さらに、ここには、抑圧された男女の性が象徴されているとさえとらえて、それを作品にしています。
さらに、ミレー研究者として知られるロバート・L・ハーバートは、男は祈っているわけではなく、女が祈り終わるのを帽子をまさぐりながら待っているだけ、と読み説いています。よく見ると、遠くの教会もその日の収穫も女の側に集中して描かれていることから、当時のフランスの田舎で、宗教的な役割を担っていたのは女性だったのだろうと示唆しています。
しかし、さまざまな新説、新しい事実が浮上しても、私たちにとって「晩鐘」は、やはり敬虔な祈りに満ちた平和な絵画であることに変わりはないのです。キリスト教の伝道とともに明治の日本に紹介されたこの作品は、今でも最も有名な西洋絵画の一つです。そして、その優しく慎ましい“アース色”の世界は、ミレーの古風で一徹な魂の美しさを、そのまま現代に伝え続けてくれているのです。
★★★★★★★
パリ、ルーヴル美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎ミレー
坂崎乙郎著 新潮美術文庫 (1998-05-10出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎週刊美術館 ― ミレー/コロー
小学館 (2000-05-02発行)
◎西洋美術史
高階秀爾監修 美術出版社 (2002-12-10出版)