なんと静かで、モニュメンタルな壮大さをたたえた画面なのでしょうか。その侵しがたい雰囲気に、見る者は目も心も奪われます。聖人の向かって右奥には、外へ向かって規則正しく美しいアーチが並び、左奥の窓の向こうには澄明な空気を感じさせる風景が広がります。画面全体にみごとに構成された縦の線と横の線、そして曲線の妙が、聖人を中心としたこの場の静謐さをより深く、確かなものにしてくれているようです。
聖ヒエロニムスといえば、荒野における改悛者の姿として描かれることが多く、そこで幻視を体験するなど、強靱な知性と火のように激しい気性をもった人物という印象が強いように思われます。しかし、その他にも彼にはさまざまな顔があり、多くの画家がインスピレーションを刺激され、数え切れないほどの聖ヒエロニムスが描かれてきたのです。
386年、ヒエロニムスはベツレヘムに居を定めました。そこで彼は長年にわたり、旧約、新約聖書のラテン語訳の作業に専念しています。これはウルガータ訳として知られており、11世紀の後にトレント公会議(1545年から63年まで、イタリアの都市トリエントを中心に行われたカトリック教会の総会議のこと。宗教改革に対抗して教会の粛正や教義の確定などを行い、近代カトリックの基礎を形づくったもの)でラテン語のテキストとして公認されています。ですから、この作品は西方教会(キリスト教最大の教派であるローマ-カトリック教会)の教父(古代キリスト教会の代表的神学者のことであり、正統信仰をもち、模範的な生涯を送ったとして特に公認された人のこと)の一人として知られる聖ヒエロニムスの、もっとも彼らしい、知的で静かで、それでいて力に満ちた姿と言えそうな気がします。
ところで、この作品はかつて、フランドルの巨匠ファン・エイクの作とされていた時期がありました。確かに、フランドル風の細部描写と空気遠近法をイタリア的遠近法に巧みに組み合わせた、アントネロ芸術の頂点を示すみごとな作例であり、ファン・エイクの繊細さを十分に彷彿とさせてくれます。ところが、非常な大作に見えながら、この作品は46×36.5cmという意外な小ささなのです。この小宇宙が両手で抱えられる程度の板絵であるということは驚きであり、画家の力量を示すものでもあると言えるのでしょう。
建物の特殊な造り、聖人や周囲の動物、植物、調度品も心をこめて丁寧に描かれ、様々な隙間からもれる光も画面に落ち着きを与え、見る者の心を穏やかに鎮静させます。右奥のライオンは聖人の持ち物として有名ですが、その姿があえて影のように描かれていることにも、画家がこの聖人の存在をより強く生身の人間として描こうとした意図を感じさせるようです。
作者のアントネロ・ダ・メッシーナ(1430頃-1479年)はシチリア島出身の15世紀イタリアの画家ですが、15世紀半ばの絵画における国際的な影響関係を強く感じさせるという意味でも興味深い画家です。彼の画風は、フランドルやプロヴァンスの巨匠たち、そして、中部イタリアに旅行したときにはピエロ・デラ・フランチェスカから強い影響を受けたと言われています。そのため、フランドル派の細密描写や油彩の技法、そして中部イタリアの遠近法や幾何学的な形態がみごとに融合され、複雑に絡み合って、透明な光と深い色彩に彩られた詩情豊かな作品世界が実現されているのです。
画家は、書斎に坐る聖ヒエロニムスにどのような思いをこめたのでしょうか。書物、ペン、角製のインク壺などの小道具に囲まれた聖人を中心に、学問世界、そして自然界へと小さな宇宙は広がっていくようです。
★★★★★★★
ロンドン、 ナショナル・ギャラリー 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎名画の見どころ読みどころ―朝日美術鑑賞講座〈1〉/15世紀ルネサンス絵画〈1〉
朝日新聞社 (1992-02-25出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳 日本経済新聞社 (2001/02出版)