強い印象を与える作品です。幼い二人の子を抱く母の、遠くに視線を投げる表情に胸を突かれます。子供たちもどこか不安そうで、幼い妹は今にも泣き出してしまいそうです。
しかし、この作品を包む神秘的な茶色がかった色彩は、この場の静けさを見る者に深く印象づけます。それはまるで画家の心の風景そのままのようでもあり、だとすれば何と真摯な風景であろうと感じ入ってしまうのです。
作者のハンス・ホルバイン(1497/98-1543年)は、ロンドン、バーゼルで活躍したドイツ・ルネサンスを代表する画家です。彼はそもそも高名な画家の次男として生まれ、そのため、「ハンス・ホルバイン(子)」と呼ばれています。画家一族出身であるホルバインは、叔父も兄も画家、そして息子のフィリップ、ヤコプとも画家なのです。
父の工房で修業したのち、バーゼルの画家組合に加入します。さらにアントウェルペン経由でロンドンに渡り、2年間滞在しています。結局、1532年に再びロンドンに渡って10年余りイングランドの宮廷で活躍しましたが、ペストに罹って亡くなります。そういう意味では、旅に次ぐ旅の画家だったといえます。
この作品は、28年にイングランドから帰国した際に描いた家族の肖像画です。ホルバインは西洋美術史上、有数の肖像画家でした。イングランドから帰国し、バーゼルに残していた家族を描くというのも、人の子の親として、夫として、当然の心の発露という気もします。寂しい思いをさせて済まなかったね、というところでしょうか。
宮廷で喜ばれる肖像画には、モデルそのままというより、適度な美化が要求されます。ホルバインはそのあたり、現実と理想の融合を絶妙に見せた画家でした。注文主の期待を裏切ることはなかったのです。
しかし、この作品の中の妻や子供たちは、なんとみごとな写実で描かれていることでしょうか。恐らく余計な美化も誇張もない、真実の姿が表現されているのだろうと思われます。
妻のエルスベートとは1519年結婚であり、ここに描かれた子供たちは、7歳の長男と2歳の長女と言われています。二人を抱き寄せる妻はおそらく30歳位と思われますが、年齢よりは明らかに上に見受けられます。ホルバインは、大切な妻だからこそ偽りなく描きたかったのかもしれません。ただ、妻もそれを望んだかどうかは疑問です。
ホルバインの手になる肖像画の中でも異色のこの作品は、非常に丁寧に、しかも実験的に描かれています。きちんとした三角構図と、息子を抱く妻の右手の丹念な表現には、レオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」との類似がしばしば指摘されています。画家はもしかしたらここに、彼なりのイタリア・ルネサンスを表現したのかもしれません。
この作品は画家の亡き後、妻の手元に残されたといいます。ですから、やはり画家から妻への愛情あふれるプレゼントだったのかもしれません。しかし彼女は、後にあっさりと売却してしまっています。
★★★★★★★
スイス、 バーゼル美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄著 小学館(2008/07 出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也訳 講談社 (1989-06出版)