これはおそらく、今まで目にしたものの中で、最も忘れがたく、痛々しく、そして感動をおぼえずにはいられない磔刑の場面であると思われます。茨の冠が頭に突き刺さり、肋骨の下を槍で貫かれ、重ね合わされた両足に容赦なく釘を打たれたイエスの肉体が、暗い闇を背景に、耐えがたい苦悩を抱えたまま十字架にかけられています。
十字架の左側には聖母と聖ヨハネが立ち、そしてマグダラのマリアがひざまづいています。悲しみに沈む三人の姿は本当に痛々しく、ことに白い衣の聖母マリアは、我が子の死に接したショックから、すでに気を失いかけている様子です。一方、十字架の右側には洗礼者ヨハネが立って、キリストが救世主であることを冷静に指し示していますから、左では人間としてのキリスト、右側では神としてのキリスト…という、彼の二重性が描かれているわけです。
そして、それは十字架上のキリスト自身にも反映されています。どろりとした感触の血をしたたらせ、手足が不自然なほどにねじ曲がった哀れな姿のキリストではありますが、その身体は他の人々に比較してもはるかに超人的な大きさで描かれているのです。人であると同時に、救世主であり神であるキリストのその堂々とした表現は、一度見たら忘れられない衝撃を、見る者の心に深く刻み込んでしまうのです。
ところで、この耐えがたい苦悩と、人々の絶望的な悲しみの表現は、より古いドイツの作品を想わせます。画面の壮絶さ、暗さ、苛酷な写実主義と悲痛な情感の混合は、イタリア・ルネサンスの明るさとは、まったく異質なものなのです。やはり、ゴシック後期の表現と言ったほうがぴったりくるでしょう。このようなところから、グニューネヴァルトはドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーとしばしば比較され、ドイツの民族性や地域性をひきずってとどまった、古い時代の画家という評価を受けてしまいがちなのです。
15世紀の北ヨーロッパの芸術家は最初、イタリアの表現形式を無視し、フランドルの画家をお手本としていました。しかし、1500年ころから、イタリアの影響がまるで洪水のように押し寄せるようになり、そしてまた一方、後期ゴシックの様式も多分に残っていたのです。そういう意味で、グリューネヴァルトと、イタリア的考え方を豊かに持つデューラーの様式との対比は、この時期の混乱した北方の様相を如実に物語っているようで、引き比べて考えるにはちょうどよい好例と言えるのかも知れません。
しかし、グリューネヴァルトの構想力を見るとき、それが後期ゴシックのみでは得られない、深い遠近法の知識に裏打ちされていることを見逃すことはできません。また、このキリストに見られるように、その人物像はがっしりと力強く、見る者に強烈な印象を残してくれるのです。
このように、彼はイタリア・ルネサンスにまったく触れていなかったわけではありません。そして、ここにみなぎる激しい情念の表現、あまりにも幻想的なヴィジョンを見るとき、彼がデューラーと比肩し得る偉大な画家であったことを、私たちはあらためて実感させられてしまうのです。
★★★★★★★
フランス、 コルマール、 ウンターリンデン美術館 蔵