おさな児イエスは母の手に支えられながら、あんよを始めようとしています。そのイエスに手を添えながら
「はい、がんばって」
と声をかけているようなマリアは、まだごく若いお母さん・・・という感じで、頬がふっくらした様子も、まだ十代の女の子のようです。
聖書の中のマリアも若いわけですから、これで本当だとは思うのですが、「聖母」というと、どうしても理想的で完璧なおとなの女性を思い浮かべてしまう習慣がついているのか、こんなにはつらつとした聖母を見ると新鮮な感動をおぼえます。そのせいか、この作品からは受難の共感や苦悩といったものは感じられず、あくまでも元気で美しい母親とちょっと頭の良さそうな男の子が描かれている・・・というイメージなのです。
ラファエロは、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロといった巨匠たちが、その生涯を費やして探求した結果をいとも易々と吸収し、みごとに自らの才能の発現として作品にしてしまいます。夭折の画家ラファエロは、そういう意味の、受け入れる力を惜しまない天才であったような気がしてなりません。ラファエロの描くマドンナが、いつも澄明で甘美で決してこちらを裏切ることなく美しいのは、そんな彼の翳りのない心から生まれてきているからではないのでしょうか。
この作品の中でマリアとイエスは、その信頼関係を表すように見つめ合っています。考えてみると、これほどまっすぐ見つめ合っている聖母子像は、なかなか他には見当たらない気がします。この率直さが「庭師の聖母」の変わらぬ人気の秘密なのだと思います。
★★★★★★★
パリ、 ルーヴル美術館蔵