膝をつき、これから斬首されようとしているのは、伝説上の戦士聖人として名高い聖ゲオルギウスです。彼をテーマとした絵画では、何といっても「聖ゲオルギウスと竜」を取り上げたものが多いのですが、この作品は、数少ない殉教場面を描いたものです。
しかし、背を丸めてひざまずく姿は決して弱々しいものではなく、合わせた手にも強い意志が感じられます。ここまでくるのに、毒杯を飲まされ、車輪に縛りつけられ、煮えたぎる大釜に投げ入れられるなどの様々な試練に耐えたといわれていますから、彼の心身の強靱さは筋金入りだったことでしょう。いよいよ最期のこの時にも、その信仰心には一点の曇りもなかったに違いありません。
ところで、この美しいフレスコ画は、パドヴァのサンタントニオ聖堂の前庭に、ルーピ・ディ・ソラーニャ伯爵が建てた礼拝堂の壁面を装飾しています。そして、作者のアルティキエーロ(1330ころ-95年)は、パドヴァの画家アヴァンツォと手を組んで壁画制作をしていますが、量感のある人物たちを広大な自然や建物の背景が包む奥行きのある構成に、確かにアルティキエーロの手を感じることができます。
マルティキエーロを語るとき、ジオットの影響を抜きには考えられません。三次元的に人物群を配置する効果的な手法、人物像の堅牢さ、量感は確かにジオットを思わせます。そして、それが最もアルティキエーロらしい特徴でもあります。しかし、どこか精巧な舞台装置を思わせる場面設定は動きの少ないゴシック的でもあり、14世紀末の趣味も感じさせるのです。そのあたりに、アルティキエーロの持つ、複合的な魅力がひそんでいるというべきなのかもしれません。
アルティキエーロは、14世紀後半の、古代ローマから栄えたヴェネトの画家の中では傑出した存在でした。そしてヴェローナのゴシック様式の創始者といわれながら、不思議なことに、彼についての確実な記録はほとんど存在していません。それでも、ここに見られるような精妙な細部描写は本当にみごとで、その強く豊かな表現力によって聖書の中の物語も、非常に現実的な生き生きとした人間ドラマにしてしまうのです。
そして、何よりも特筆すべきなのは、彼の恵まれた才能が、常に日常的な生活感を見逃さなかったということだったのではないでしょうか。この作品の中でも、残酷な処刑場面を幼い息子に見せまいと、この場から連れ出そうとする父親の姿にハッと胸を突かれます。こうした画家の細やかな神経が、今の私たちにもかえって新鮮に映るのです。
★★★★★★★
パドヴァ、 オラトリオ・ディ・サン・ジョルジョ 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳 日本経済新聞社 (2001/02出版)