「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。
聖パウロ…当時はまだサウロといいましたが….は、今まで聞いたことのない、静かで威厳に満ちた声を聞きました。彼はこの直前、突然天からの強い光に打たれ、馬から投げ出されて目が見えなくなってしまったのです。まっ暗な視界のなかで、ただ一つの光のように響いた声を、ローマ風の鎧を着け、地面に倒れたサウロは、無意識のうちに両手を広げて受け止めているようです。傍らで、馬の轡をあわてて押さえた従者の耳にも、その声は確かに届いていました。まさに、復活したキリストが、サウロに語りかけた瞬間だったのです。
サウロは小アジア キリキア州タルソ出身のユダヤ人であり、熱心なユダヤ教徒でもありました。この日も、ユダヤ教会からキリスト教徒を捕らえる許可をもらうために、シリアのダマスクスへの道を急ぐ途中だったのです。人々は目の見えなくなった彼の手を引き、ダマスクスに連れて行きました。この出来事をきっかけにして、サウロはキリスト教へと回心します。そして洗礼を受け、以後は伝道旅行にかけめぐり、各地の教会へ書簡を送り、キリストの愛を伝えることとなるのです。
このよく知られたパウロの主題は、多くの画家が描いており、作例も広汎に見ることができます。多くは「傲慢」ということを落馬する人物で擬人化しており、パウロは恐怖のあまり平身低頭するか、気を失って地面に倒れた姿で描かれます。そして従者たちが、暴れて後ろ脚で立つ馬を押さえたり、彼を助けに走り寄ったりする姿が描き込まれたりもします。天からの光、イエスの声…という聖書の記述をそのまま忠実に描こうとすると、どうしても登場人物の動作も大仰で、非常にドラマチックな作品に仕上がることの多いテーマとも言えます。
しかし、このカラヴァッジオの描いた「パウロの回心」には、そうした超自然的な要素がまったく感じられません。彼はこの主題を、日常の出来事の一つ…..現実の事件として描いているのです。倒れたパウロと馬と従者は、カラヴァッジオらしい精緻な写実、独特の明暗表現の中に描き出されているものの、そこには細部にいたるまで徹底したリアリズムが貫かれており、何の奇跡も陶酔も見出すことはできないのです。馬の動きも従者の仕草も、とくに動的ということはありませんし、聖パウロにいたっては、舞台上の役者がポーズをとったまま動きを止めているようにさえ見えます。これは当時、日常の光景のなかに神が現れることで民衆を教導するという、対抗宗教改革期のカトリック教会の姿勢に沿う表現ではあったのですが、やはりカラヴァッジオの、聖なる場面に民衆が主人公となるあまりのリアリティには、教会側が拒絶反応を起こすことも少なくありませんでした。
実は、このサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂の『聖ペテロの回心』も、第二のヴァージョンなのです。最初の作品は教会側から拒絶されて、当時熱心なカラヴァッジオの保護者であったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯が買い取ったという経緯があります。
しかし、教会側の無理解にもかかわらず、ジュスティニアーニ侯をはじめとして、カラヴァッジオには生前から、強力な支持者が数多く存在していました。彼らは高い眼識を持った人々であり、カラヴァッジオが16世紀後半の、非現実的で曖昧な道を進もうとしていた宗教画を救う存在であることを、当時から明確に認識していたのです。
★★★★★★★
ローマ、 サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂 蔵