破損部分が多くて少し残念なのですが、この作品は、ジョットが聖フランチェスコ会総長フラ・ジョヴァンニ・ディ・ムーロの委嘱で、アッシージのサン・フランチェスコ教会上堂に制作した壁画『聖フランチェスコ伝』の一つで、 聖フランチェスコの亡骸にすがって嘆き悲しむのは聖キアーラと、その妹アニエーゼではないかと思われます。
貴族の娘としてアッシジに生まれたキアーラは、18歳のとき、両親の反対を押し切って家を出、1212年、聖フランチェスコの最初の女性の弟子となりました。その後、聖フランチェスコの清貧の理想を守って、「貧しきキアーラ女子修道院」を開きますが、伝説によると、1241年、東北のサラセン軍が修道院を襲ったとき、キアーラの祈りによって異教のサラセン軍を退散させたと言われています。そしてキアーラの臨終には聖母マリアが彼女の魂を迎えに来たとも伝えられていますが、実際の彼女の人生は悲惨なもので、死期近い彼女を訪れた教皇が、直接地面に横たわるキアーラの姿を見て涙を流したと言われています。
最初、聖フランチェスコとキアーラは、精神的な意味での困苦の生活を共にしようと考えていたようですが、世のひとびとの非難の目にさらされ、別れねばならなかったようです。
何不自由ない富裕な家の娘が、なぜフランチェスコを追って、自らすすんで苦しい人生を選んだのか、そしてフランチェスコ自身もどのような展望を抱いて彼女の想いを受け入れたのか、今となっては回答を得られるものでもありませんが…..しかし、一途なキアーラを想うとき、最期には聖母マリアに、神に、最高に愛され、受け入れられて天国にのぼったのだと信じたい気持ちでいっぱいになってしまうのです。
修道院の規則に従うと、キアーラとその妹は、サン・ダミアーノの修道院の小窓を通してしか、聖フランチェスコの亡骸に別れを告げることはできないはずです。しかし、ここではあえて、このようなドラマティックな表現がされています。
ところで、「キリスト哀悼」を思わせるような劇的な深い悲しみの場面ですが、実はこの画風は真正のジョット的作風と言われるものとは異なると言われています。
実は、ジョットほど、西洋美術史上、その存在意義を認められながら、作品の真偽について議論のある画家も珍しいのです。間違いなく彼の真作とされているのは、パドヴァのスクロヴェーニ家礼拝堂の壁画他の少数だけで、そのへんの真偽のほどは、もちろん私などには知る由もありません。
しかし、彼の描いた(に違いない)修道士、修道女たちの簡素な、色的にも変化のない衣装のうえに、私たちは偉大なモニュメンタリィを感じ、そしてそこにたちこめる誘惑に満ちた叙情性に…やはり、言葉を失って見入ってしまうのです。
★★★★★★★
アッシージ、 サン・フランチェスコ教会上堂壁画