逆光に浮かび上がった二人の天使の、なんと美しいことでしょうか。当時、このように主題に夜景が用意されるのも珍しいことだったのですが、この壁画は建物の北側に位置し、そこだけがよりいっそう暗くなって、天使が実際に光に包まれて訪れたかのような効果を上げています。そして、聖ペテロだけでなく、それを見上げる私たちまでが、幻を見ているような陶然とした心持ちに、しばし現実を忘れてしまうのです。
ラファエロは、教皇ユリウス2世の起用により、ヴァティカン宮の「署名の間」「ヘリオドロスの間」「火災の間」「コンスタンティヌスの間」を次々に壁画によって装飾し、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂とともに盛期ルネサンスの古典様式を代表する作品群を生み出しました。殊に「ヘリオドロスの間」は、ユリウス2世の依頼で、歴史上、神が教会に与えた庇護を共通のテーマとした部屋となっており、その中でも、この作品はとりわけ幻想的で美しく、印象的な大作となっています。
聖ペテロは、十二使徒の中でも「第一の使徒」と称されています。使徒アンデレの兄弟で、ガリラヤの漁師でしたが、イエスから「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」との召命を受けた人物で、十二使徒の統率者、キリストに最も近かった一人と言われています。彼に授けられたペテロという名は「岩」を意味します。それは、教会の基盤となる岩であり、イエスは
「この岩の上に私の教会を建てよう」
と言っています。
そのペテロが、ヘロデ王によって使徒たちが迫害を受けていた時代、雷の子と呼ばれた大ヤコブの処刑に際し、捕らえられて投獄されました。ペテロが鎖につながれ、二人の兵卒の間で眠っていると、輝く光のなかに天使が現れ、彼に起きるようにと告げます。ペテロは天使に導かれ、誰にも気付かれずに獄を出て町に抜ける門を通り、無事に逃れることができるのです。
この作品では、北イタリアやフランドル派の深い影響が見られるものの、非常に古典的な構成の中に、ラファエロの持つ本質的な美への追究、実験的な試みの精神が随所に見られ、本当に躍動的で魅力的な世界が展開されています。
中央には、眠るペテロを救出しようとする天使の姿が格子に遮られたかたちで垣間見え、きわめて劇的で絵画的な設定です。そして右側には輝く天使に導かれて牢を出るペテロとぐっすり眠り込んだ兵士たち、左側にはペテロの脱出を知って階段を駆け上がる兵士たちの姿が、明け方の月の光を背にして浮かび上がっています。このとき、ペテロ自身は幻を見ているような心持ちで、エルサレムの門を出て、ようやく我に返ったと言われていますが、たしかにここに描かれたのは、幻….。しかし、叙情詩と叙事詩を統合したような、一つの現実が疑いなく視覚化された世界なのです。
この挿話は、教会がやがて迫害から救出されるであろうことを象徴したものと見なされ、舞台も牢獄ということで決して派手な印象のあるテーマではないのですが、ラファエロの鏡のように透明な感性が、このようにバロックを予感させる宗教表現を実現させたのです。彼は、闇に輝く光が見る者に与える効果を、そして人々の感覚的な喚起力を、十分にわかっていたのです。
★★★★★★★
ローマ、 ヴァティカン宮 ヘリオドロスの間 蔵