穏やかな眼差しで教会の宝物類を貧者たちに分け与える若者は、4世紀以降のキリスト教世界で最も崇敬された聖人の一人、聖ラウレンティウスです。彼には、真に価値あるものの存在がよく分かっていたのです。
伝説によれば、聖ラウレンティウスは、スペインのサラゴッサで勉強中、教皇シクストゥス2世によってその博識を見込まれ、ローマへ伴われて助祭に任ぜられました。ところが258年、ウァレリアヌス帝の迫害下でシクストゥス2世が殉教してしまいます。ともに殉教を願ったラウレンティウスでしたが、シクストゥスは敢えて死を3日延ばし、その間に、彼が預かる教会財産を全て貧者に分かつように命じたのです。それは、ラウレンティウスが高価な器や金銭から成る教会の財産を管理する身だったからです。
そこで、ラウレンティウスはこのように惜しみなく、人々に宝物を分け与えたのです。彼の周りには、乞食や病を得た女性、子供たちが取り囲み、大きな驚き、喜びに沸き立っています。しかし、その中で静かな表情を崩さない聖ラウレンティウスの美しさは見る者の心を打ちます。彼はこの後、ローマの長官から宝物を差し出すように命令されると、周りにいた貧者や病者を指し、「ここにいる人々こそが教会の宝なのです」と答えたのです。このため、彼は苛酷な殉教を遂げることとなります。
この印象的な作品の作者ベルナルド・ストロッツィ(1581-1644年)は、カプチン会修道士であり、17世紀ジェノヴァ黄金時代の代表的画家でした。ストロッツィはフランドルの偉大な巨匠たち、ルーベンスやヴァン・ダイクからの影響を強く受け、豊かで調和のとれた色彩、大まかな筆触を学んでいきました。そして、そこから更にカラヴァッジオなどの様式も組み合わせ、彼なりの絵画を確立していったのです。この作品の場合も、手前で背中を見せる幼児の、腕や髪の繊細でふくよかな描き方など明らかにルーベンスの影響を見てとることができますが、その壮大さ、豊かな量感には、16世紀ヴェネツィア絵画におけるティツィアーノの雰囲気を感じることができるのです。
ところで、貧者に施しをする聖ラウレンティウスは、僧服の中でもダルマチカという助祭長服をまとった若者として描かれています。そして、帽子の代わりに光輪が与えられ、その胸には殉教具としての鉄灸が刺繍されているのです。そこには、修道士であったストロッツィの、この聖人に対する思いが深く優しく込められているのではないでしょうか。
★★★★★★★
ヴェネツィア、サン・ニッコロ・デイ・トレンティーニ聖堂 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ著、宮下規久朗訳 (日本経済新聞社 2001/02出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也訳 講談社 (1989-06出版)
◎キリスト教美術図典
柳 宗玄、中森義宗編 吉川弘文館 (1990-09-01出版)