豊かに実った麦の穂を携え、静かに書物に目を落とす聖バルバラの物語は、あまりにも哀しく、悲惨なものです。ですから、この穏やかな彼女の佇まいを見て、私たちは一様に、安堵の思いにとらわれます。女性として初めて聖人に列せられたバルバラは、その姿だけでなく、心の隅々までも清らかで美しい少女だったのです。
バルバラの父はディオスクルスといって、異教徒の貴族でした。求婚者が後を絶たないバルバラに悪い虫がつかないように…と一計を案じたのでしょうか、彼らを退けるために塔を建てて娘を閉じこめてしまったのです。ところが、一緒に住まわせた侍女がキリスト教徒であったため、バルバラは彼女からいろいろな話を聞くうち、次第にキリスト教に心を傾けるようになります。そしてとうとう医師に扮した僧を塔の中に招き、ひそかに洗礼を受けてしまったのです。また、塔には窓が二つしかありませんでしたが、バルバラは父の不在中、職人に説いて三つ目の窓を加えさせました。そして、帰宅した父親に、
「三つの窓は、父なる神と子なる神、それに魂を照らす精霊を象徴します」
と説いたため、ことの次第を知った父親は激昂します。
バルバラは、なんとか塔から逃れようとしますが、羊飼いによって発見されてしまい、父親の手でローマの総督に引き渡され、改宗を拒んだために拷問を受けることとなります。その際、一説には、父親も一緒に鞭打ちなどの拷問に参加したと言われていますから、バルバラはその身だけでなく、心の中もどんなに傷ついたことでしょうか。結局、彼女は最後まで信念を曲げることがなかったため、父親の剣で斬首されてしまいます。しかし、その時に父親もまた、稲妻に打たれて焼き尽くされて死んだと言われています。
ところで、バルバラが総督に引き渡される道すがら、桜桃のつぼみを折って壺に生けておいたところ、処刑の当日に、バルバラの心そのままのような美しい花を咲かせたと言われています。現在でも、12月4日は聖バルバラの日とされていますが、その日には、水を入れた皿に小麦を浸し、クリスマスのころの芽の出方で翌年の豊凶を占うという習慣も残っていて、それは「バルバラの麦」と呼ばれいます。このように、聖女バルバラは、豊かな実りを象徴する聖女でもあるのです。
そして、三つの窓を持つ塔もまた、聖バルバラの持ち物として有名ですが、この作品は、まさに大聖堂の工事現場を背景にした、一目で聖バルバラと納得できる作品です。これは、豊かな社会を反映して大聖堂が比較的多く建てられた中世盛期に一般化したテーマですが、彼女が幽閉された塔の建造される様子が、非常に精緻に描写されて、遠景までも見晴るかす空気感に、これが31×18㎝という決して大きくはない画面であることを忘れてしまいます。塔の右下で石材を刻む石工たち、左下で石材やセメントを運んでいると見られる人たち、塔の上では石を積み上げている人々…など、まるでその場に居合わせているようで、職人たちの立ち働く生き生きとした躍動感までがごく自然に伝わってくるのです。
聖バルバラの物語には、もちろん史的根拠はありません。でも、並み居る聖人たちの中でも、彼女の人気は絶大です。苛酷な運命を強い意思で受け止めた聖バルバラをいとおしむように、フランドル画派の創始者ファン・エイクは、このように穏やかで満ち足りた場所を、彼女のために用意したのです。
★★★★★★★
ベルギー、 アントウェルペン王立美術館 蔵