左に着衣の美女、右に裸の美女、そして真ん中にアモル(キューピッド)が配された不思議な作品です。そのため、古くから「天真の美と装いの美」、「三つの愛」、「神聖な女と俗なる女」など、さまざまに呼ばれており、「聖愛と俗愛」の呼称は18世紀末に定着したと言われています。主題についてもさまざまな解釈があるのですが、一般的に、左の着衣の女性が世俗のヴィーナス、右の裸の女性が天上のヴィーナスとみなされます。
二人のヴィーナスが二種類の愛を表わすという思想は、15世紀フィレンツェの人文主義者たちによるものでした。「世俗のヴィーナス」は物質界に見出される美、および生殖力の根源を意味し、「天上のヴィーナス」は、神聖で永遠なるものから生ずる愛を象徴すると考えられたのです。しかし、突き詰めるところ、二人のヴィーナスはどちらも美徳を表わしたもので、「世俗のヴィーナス」は「天上のヴィーナス」へと向上していく、その過程の段階にある存在とされています。ですから、「天上のヴィーナス」は裸体で、聖なる愛の炎の燃える壺を持ち、愛の情熱を示唆する深紅の衣を身にまとっているのです。ちなみに、ルネサンスの人々にとって、裸体は清純、潔白を意味するものでした。
ところで、この作品は、ヴェネツィアの貴族ニッコロ・アウレリオの注文で制作されたものです。画面中央の石棺と、その上の銀製の鉢に表わされた紋章がニッコロ・アウレリオのものであることから、彼と花嫁のラウラ・バガロットの結婚記念画であることが、近年、確実視されるようになりました。おそらく、左の女性がラウラなのでしょう。「貞潔」を意味する白い服を身に付け、手袋をはめた左手を貞潔のシンボルである「閉ざされた器」にかけ、しかも右手には結婚の象徴とされるミルテの花を携えているのですから、間違いありません。敢えてこちらを向いているあたりも、これが肖像画であることが十分にうかがえます。
この作品は、ティツィアーノ(1488/90-1576)の初期の代表的な傑作と言われています。アルプス山麓の小村に生まれ、9歳のときにヴェネツィアのモザイク画家に師事して以来、ジョヴァンニ・ベッリーニ、ジョルジョーネらの工房で活躍し、やがてフェラーラ、マントヴァ、ウルビーノの宮廷と関係を結び、さらに1530年以降は神聖ローマ皇帝カール5世の愛顧を受けて、画家は活躍の場を広げていきます。そんな揺るぎないヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの、まだ25歳の頃のみずみずしく鮮やかな、光と色彩と喜びに満ちた寓話の世界です。
ところで、このように寓意の秘められた作品は、ルネサンスの人々に特に好まれたようです。古代のエピソードや神話にもとづく作品から、その隠された意味を読み取り、絵解きをすることが当時の人々の上質な楽しみだったのです。絵画の秘密をティツィアーノから提供されるというのも、なかなか贅沢な喜びと言えそうです。
★★★★★★★
ローマ、 ボルゲーゼ美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎イタリア・ルネサンスの巨匠たち―ヴェネツィアの画家〈24〉/ティツィアーノ
フィリッポ・ペドロッコ著 東京書籍 (1995-05-25出版)
◎絵画を読む―イコノロジー入門
若桑みどり著 日本放送出版協会 (1993-08-01出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)