人々は苦しみを得たとき、しばしば聖アンナに祈りました。聖母マリアの母であり、子供を教育する母、修道女たちのお手本としても慕われた聖アンナは、おそらく聖母が成人してからも、最も頼りにした女性であったに違いありません。聖アンナは膝の上に書物を広げ、少女マリアに語りかけます。そして、聡明な表情でじっと母を見つめる娘の目は、限りない信頼と尊敬の念に輝いているのです。
17世紀中ごろから後半にかけて活躍したセビーリャの大画家ムリリョ(1617-82年)は、母と子の親密なひとときを甘美に、そしてやや感傷的に描きました。そのバロック的で華麗な画風は、いかにもこの時期のムリリョらしさにあふれています。温かく優しく、湿潤な空気感はヴェネツィア派やフランドル派絵画からの影響であったと言われています。初期のころの強い明暗表現は影をひそめ、この時期のムリリョは優雅さの翼を大きく広げ始めていました。
しかし、新大陸アメリカへの独占貿易港として栄え、芸術の中心地でもあったセビーリャも、17世紀後半には、次第に衰退へと向かっていました。そして、ちょうどこの作品の描かれた1650年ごろにはペストの惨禍におそわれ、この都市の人口のおよそ半分が失われたのです。ムリリョの醸し出す優しさは、そんな時代の社会的な要請でもあったのでしょう。人々は、慈善と救済の理念を視覚化したムリリョの作品に、甘い救いの世界を求めました。ムリリョはまさに、セビーリャ・バロックの担い手であり、信仰篤い風土になくてはならない救世主だったのです。
聖母マリアはおそらく、聖ヨセフのもとに嫁いでからも変わりなく、母に教えを乞うたのではないでしょうか。実家の母を頼りにする娘の姿は、いつの世も変わらないようです。二人だけの貴重な時間を、天使たちも幸せそうに祝福しています。
★★★★★★★
マドリード、 プラド美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎聖母のルネサンス
石井美樹子著 岩波書店 (2004-09-28出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)