これは聖母マリアではなく、その母アンナの物語です。聖母マリアの母アンナもまた、神聖なる受胎をした人でした。イエスの誕生は、その時点から用意されたものだったのです。
13世紀の「黄金伝説」によると、アンナは長い間、夫ヨアキムとの間に子供ができませんでした。そんなある日、ヨアキムがエルサレムの神殿へ供物を捧げに行くと、子供がないことを理由に祭司長からなじられ、神殿から追い払われてしまったのです。失意のヨアキムは荒野に退き、もう家に帰ることもできないと思い定め、羊飼いたちと暮らしていました。すると、天使が現れ、妻アンナの妊娠と、生まれた子がイエスの母となることを告げます。そのしるしとしてヨアキムは、エルサレムの金門へ行き、やはり天使に呼ばれたアンナと出会い、喜びに満ちて抱擁し合いました。その瞬間、アンナは子供を宿したのです。
この作品では、聖アンナの「汚れなき」妊娠の瞬間、そして出産後の場面が描かれています。
エルサレムの金門での抱擁は、薄紫色の階段の上に表現されています。アンナにとって、マリアを身ごもるためには、抱擁だけで十分でした。なぜなら、神の母である女性を産む女性もまた、完全に純潔な存在でなければならなかったからです。
そして、画面左には、出産直後、ベッドで休むアンナが描かれています。助産婦たちは忙しそうに立ち働き、赤ちゃんのマリアに初めての産湯を使わせる準備をしています。彼女たちは生き生きと喜びに満ち、甕にお湯を満たす女性は、まるで風をはらんだ春の女神のような優雅さで描き出されています。
さらに、天井近くの梁の部分では、天使たちが音楽を奏で、ダンスをしています。非常に古典的な表現ですが、これも当時の気風にマッチしたものでした。この装飾の下には、「聖母マリアよ、あなたの誕生は、世界の喜びの源である」と書かれているのです。
このサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂内の壁画は、ギルランダイオ作品最大のものです。その中でも特に、この「聖母の誕生」は人気があり、代表的な作品でした。メディチ家の外戚に当たるジョヴァンニ・トルナブオーニの依頼で、弟子を総動員しての制作だったと言われています。その中には、ミケランジェロも含まれていました。
聖堂内陣の右壁には聖ヨハネの生涯、左壁に聖母マリアの生涯が描かれ、それはまるで、裕福な名家の室内で行われた舞台劇のようでさえあります。「風俗画」と評する人もいるほどで、聖書の物語を描いた宗教画という雰囲気はほとんどないかもしれません。むしろ、メディチ家やトルナブオーニ家の人々の集団肖像画であり、当時のフィレンツェの風俗、貴族の暮らしぶりが伝わる、生き生きとした画面となっているのです。
殊に目を引くのは、主人公であるはずの聖アンナではなく、画面中央に描かれているトルナブオーニ家の5人の女性たちです。彼女たちは一応、お見舞いに訪れたアンナの親戚という位置づけですが、画面の真ん中に描かれ、明らかに主役級の扱いです。特に、中央に立つ美女は、トルナブオーニ家の一人娘 ジョヴァンナ・トルナブオーニであり、彼女のプロフィールは、他の作品でもしばしば見ることができます。
15世紀後半のフィレンツェで人気画家だったギルランダイオは、画中に当時のフィレンツェに実在した人物や日常生活を描き込むことを得意としていました。いつの時代も人々は、宗教的な厳粛さより世俗的なものに愛着を感じるものなのでしょう。ドメニコ・ギルランダイオという名も、「花飾りのドメニコ」という意味であり、いかにも、そんな華やかな通称が似合う作風だったというわけです。
注文主の強い意向を心地よく満足させるコツを、画家は十分に心得ていたのでしょう。しかし、フランドル絵画に由来する緻密な写実と堅固な構成感覚が、ギルランダイオの華麗な活躍を支えていたことは言うまでもありません。
★★★★★★★
フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋名画の読み方〈1〉
パトリック・デ・リンク著、神原正明監修、内藤憲吾訳 (大阪)創元社 (2007-06-10出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎世界美術史
メアリー・ホリングスワース著 中央公論社 (1994-05-25出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)