この親しみ深い二連祭壇画は、のちにブリュージュ市長となったマールテン・ファン・ニーウェンホーフェが23歳のとき、信仰の証しとして寄進したものです。左翼には超然とした雰囲気を持った聖母子、右翼には寄進者であるマールテンが画面いっぱいに描かれています。
右翼の右の窓のステンドグラスには、自分のマントの一部を切り落として身体の不自由な物乞いに与える聖マルティヌスの像が描かれています。聖マルティヌスは、フランスに最初の修道院を建てた慈悲深い聖人として知られており、マールテン自身の守護聖人でもあるのです。
この二作品の特徴は、彼らが別々に描かれていても、同時代の空間に存在していることです。聖母子は形式にのっとって真正面から、そして寄進者はスリークォーターと呼ばれる、「モナ・リザ」などと同じ角度から描かれています。
二つの絵は遠近法の構成をとり、聖母子に向かって祈るマールテンの横顔が、実は聖母の後ろにある凸面鏡に、聖母とともに映っているのがわかります。聖母の姿が鏡に映るというのも考えてみれば不思議ですが、何はともあれ、そのことから二人が同じ室内にいると判明するわけです。ここには、ヤン・ファン・エイクの伝統を、画家はしっかりと受け継いだのでしょう。
ここでは、殊に鏡が効果的な働きをしています。凸面鏡は、見えない部分までも映し出し、人物の位置や窓、天井や開かれた本の場所まではっきりと確認することができます。時代を超えて、聖母がこの世に出現するなどあり得ないことながら、この鏡の影像は、現実の出来事として迫ってきます。そして、いつの間にか私たちも、この現場の目撃者となってしまっているのです。
さらに、聖母の後ろのステンドグラスを見ると、左側にファン・ニーウェンホーフェ家の紋章が描かれ、右側の窓には聖ゲオルギウスと聖クリストフォロスの像が認められます。こうした細かい部分の精緻な表現は、巨匠ファン・エイク没後のブリュージュを代表する画家となったメムリンクらしい、見事な技巧と言わざるを得ません。
ところで、メムリンクならではの硬い人物像の幼な子イエスは、ややぎこちなく、聖母の差し出すリンゴを受け取ろうとしています。リンゴは、アダムとエヴァが犯した原罪の象徴です。それを受け取るということは、将来の救世主としての使命を受け入れたことを暗示しているのです。新しい世界の秩序の創造者たるイエスは、確かに幼児ながら、しっかりと物のわかった顔つきをしています。
二人の後ろの窓外の風景は、「愛の湖」と呼ばれるミンネワーターだと言われています。水運を通して栄えたこの街も、中世以降は時の流れが止まってしまったようだということですから、わずかに垣間見えるこの風景と同じ美しい景色を、今も堪能できるに違いありません。そのとき、私たちはこの幼いイエスの受諾を、もっと現実のものとして、澄明な空気とともに実感できるのかもしれません。
★★★★★★★
ベルギー、ブリュージュ、メムリンク美術館(聖ヨハネ施療院) 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋名画の読み方〈1〉
パトリック・デ・リンク著、神原正明監修、内藤憲吾訳 (大阪)創元社 (2007-06-10出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎ 世界美術史
メアリー・ホリングスワース著 中央公論社 (1994-05-25出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)