「聖母子を描く聖ルカ」の主題は、15~16世紀のネーデルラントの画家たちに特に好まれたテーマでした。
聖ルカは、四福音書記者の一人として知られています。聖パウロからは「愛する医者」とも呼ばれていたとおり医師であり、民衆の間では画家としても知られていました。
伝説によれば、聖母はモデルとなるため、聖ルカの前に何度も現れたといいます。幼児キリストを抱いた聖母は、目には見えるけれど現実の存在ではありません。畏怖の念さえ抱きながら、画家としての興味もまた膨らみます。
ファン・ヘームスケルクは自身、ルカの気持ちになって描いたのかもしれません。ただし、この作品のルカのモデルは、画家が活躍したハールレムのパン職人だったといいます。そのため、鼻メガネと帽子という姿は、学者として名声を得ていた聖人の風貌としては、少し違和感があるかもしれません。
マールデン・ファン・ヘームスケルク(1498-1574年)は、16世紀ネーデルラントの代表的ロマニストです。32-36年のイタリア旅行は、画家に大きな影響を与えたようです。特にローマでは古代美術を学び、ミケランジェロの力強い裸体像に深い感銘を受けたといいます。このローマでの経験は、筋肉の隆起した重量感のある人体表現や動作、そして古代建築の導入などの特徴となってファン・ヘームスケルクの芸術を形作っているのです。
もう一つ、この画家を語るうえで欠かせないのが、マニエリスムの様式を北方美術に持ち込んだことでしょう。マニエリスムとは、盛期ルネサンスの終わり、 16世紀のイタリアで生まれた美術動向であり、引き伸ばされた人体、風変わりな遠近法、幻想的な雰囲気が特徴的で、時には行きすぎた洗練が一種異様な雰囲気を持つ芸術を指します。
この作品を見ても分かるように、ファン・ヘームスケルクの持つ感性の奇抜さは、どこか現世を超越したような空気を醸し出します。
まず目を引くのは、画家の前のイーゼルです。男の顔がぬっと載せられ、足元は暗く、この首の下がどうなっているのか判別しにくくなっています。さらに、彼が座る椅子の側面は、天使の乗る牡牛が浮き彫りで装飾されており、ライオンに似た顔まで付いているのです。
一方、聖母子の座る椅子も、よく見れば異様です。前脚に女性らしき横顔、そこから脚が伸びて、なんと足元は大きな鳥のかぎ爪です。聖なる母と子の椅子にこの装飾ではあまりに不気味で、あり得ない表現と言わざるを得ません。
さらに、画家の後ろで月桂樹を被って手を差し伸べる男は、画家の霊感の擬人像と思われます。ところが、霊感に導かれて描いたカンバスには、とても可愛いとは表現し難い、幼な子の顔が描かれているのです。そこで、聖母に抱かれたイエスのほうを見ると、赤子にはあり得ない筋肉で身を固めた、異様な姿の幼児キリストがいるのです。画面すべてが北方マニエリスムの画家、ファン・ヘームスケルクの面目躍如といったところでしょうか。
ところで、この作品は168×235㎝の大作で、ファン・ヘームスケルクが画家として生涯を過ごしたハールレムのシント・バーフ大聖堂にある画家組合の祭壇のために、イタリアに旅立つ記念として描いたものでした。
それを承知して聖母の足の下を見ると、巻き上がった紙片が釘で留められているのが分かります。ここには、ファン・ヘームスケルクの仲間たちからの、祭壇画に対する感謝の詩が書かれているのです。これを自ら描き込んでしまうこと自体、画家の個性的な感性と自信が伺えるようです。
★★★★★★★
ハールレム、フランス・ハルス美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋名画の読み方〈1〉
パトリック・デ・リンク著、神原正明監修、内藤憲吾訳 (大阪)創元社 (2007-06-10出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)