これより以前…美術教師であった父親が息子の絵を見て絵をあきらめたという伝説が現実のものとして進行していたころの彼にとって、自画像というのは、さまざまな対象のなかのひとつであって、画家それぞれの異なるドラマにまでは思いが及ばなかったかも知れません。
この自画像を制作したとき、ピカソはわずか二十歳でした。しかし、その顔は、おそろしく年をとって見えます。落ちくぼんで一点を見つめた眼、そげた頬、不精髭….まるで生の真実をすべて見てしまった人間の孤独と限りない苦悩を、一身に背負ってしまったかのようです。バックの、霊性がひそやかにしみとおっているような、緑がかった明るい青。そして、たっぷりとしたコートの深い紺色…。この二つの色面が画面をくっきりと区切っているなかで、ピカソの蒼白い顔だけが、黄泉の国から立ち戻ってきた人のように浮かび上がっています。
ピカソは、1901年の一年間で、油彩によるものだけでも、自画像を三点描いています。このように自画像を描いた年も珍しく、おそらく、自らの存在そのものに対する不安の中から、おのれ自身をなんとかつかみ直そうとする意識の表れだったかと思われます。しかし、私たちはやがて、この作品の中の彼の顔がすでに、自らの存在の不安におびえる人間のものではなくなっていることに気がつきます。この絵の中に、そのようなおびえを思わせる余分な動きが何一つ存在しないのです。画面のすみずみにまで、或る静かな意志が広がり、ピカソ独特の外部に対する挑むような攻撃性はもとより、苦しげな緊張感も消え、ただただ不思議な静謐が全体を支配しているのです。
「青」という色彩の選択は、ピカソにとって、単なる造型上、審美上の問題にとどまるものでなく、彼の存在の根源につらなるものであったのは確かだったのでしょう。そして、突然、驚くほどの速やかさで彼が自らの根源の色にたどり着いてしまったのには、この年の2月17日に友人のカサヘマスが失恋のためにパリで自殺したことが重要な動機となっているのは疑いのないことでした。
しかしまた、この自画像を見ているうちにふと感じるのは、ピカソがたまたま青という色によって自らの世界を塗りつぶし、自画像もまたそのようにして描いた、というだけでは片づかない何かがあるということです。たしかに友人の自殺は衝撃的で、彼を青に急速に近づけた大きな要因ではありましたが、ピカソはその時、その「青」に身を委ねるのではなく、おのれの手段として支配し、我がものとしようとしたのではないか…と感じるのです。
ユングによれば、青は「冥府めぐり」の色だといいます。ピカソは、自ら進んで冥府をめぐることを選び、それによって、青を完全に掌中のものとし、青によって現世に立ち戻る力を得たのではなかったでしょうか。不安の奥底に入りこみながら、ピカソの強い意志はそれを乗り越え、「死」というかたちをとった衝撃と悲しみと底知れぬ不安から彼自身を救ったのではなかったか、と思うのです。
★★★★★★★
パリ、 ピカソ美術館 蔵