暗い背景の中から浮かび上がるようにこちらを見つめる初老の男…。頭にうず高く巻かれた赤いターバンが強烈な印象を残すこの男性は、おそらく作者のヤン・ファン・エイク自身であろうと思われます。なぜなら、その目には、鏡をのぞき込むときのような微かな緊張感が漂い、私たちは、そこにある種の険しさを見てとることができるからです。
ヤン・ファン・エイクはおそらく彼自身に違いないこのモデルを、彼らしい明るい光と陰の豊かな表現によって、モデルの顔の形態と感触の細部にいたるまで、まるで顕微鏡でも見ながら描いたように正確に描ききっています。顎に見える無精ひげ、ターバンの生地の縮れ具合….そういったこまごまとした事柄が、まったくみごととしか言いようのない、彼の筆から生み出されているのです。
ヤン・ファン・エイクはいつのときも、決してモデルの個性を抑えようとはしません。しかし、彼の肖像画は、不思議なほどに静謐です。もちろんヤンは、人間の感情を豊かに表現できる画家です。それなのに敢えて、このような平静さを肖像画の主人公に与えるのです。そして、彼の描いた肖像すべてに共通することでもありますが、ここには心理的な謎がひそやかに秘められているようです。それはおそらくヤンのなかにある、人間の理想の姿….他の何者をも犠牲にすることのない、完全に均衡の保たれた穏やかな心理状態が表現されているからなのです。
中世美術には、真の意味での肖像画というのは存在していませんでした。ですから、15世紀に入って、ようやく画家が、他人とは異なる特徴を持つその人自身を描き留める方法を学び始めたのです。そして北方の画家は、近接距離から斜めの角度で見た人間の顔を描くことができるようになったのです。中世には考えられなかった、その人が誰であるかを一目で判別できる肖像は、人々に喜びをもって求められるようになり、似顔絵そのもので独立した作品が次第にその数を増していきました。そんな中でもこの『赤いターバンの男』はもっとも優れた作品の一つとして、今でも変わらずに、高い評価を受けつづけているのです。
ヤンは兄ヒューベルトとともに、初期ネーデルラント絵画の創始者であり、油彩画の発明者としても有名です。大作『ゲント祭壇画』は、ヒューベルトが他界した後、ヤンがそれを完成させたことでも、その偉大さは語り継がれています。また、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷画家であっただけでなく、フィリップ公の使節団の一員としてスペインへ旅行するなど、なかなかの外交官でもありました。そんなところにも、彼のバランスのとれた人間性が感じられます。しばしば、優れた画家であり外交官でもある…という人物は、この後も現れてきますが、その人たちに共通するのは、この肖像画に垣間見られるような、静かで、穏やかで、精神的なバランスを自らの中で保つことのできる冷静さだったのではないかという気がするのです。
しかし、ヤン・ファン・エイクがその作品のなかで探究し続けた「光と色彩による現実の再現」という試みは、ある意味であまりにも徹底的であり、また客観的であり過ぎたために、かえってそれを受け継げるほどの人物はその後現れませんでした。ヤンの次の巨匠ファン・デル・ワイデンは、ヤンとは異なり、過ぎし日のゴシックに見られるような感動的なドラマを取り戻そうとする仕事に向かってしまいましたから、ヤンはある意味、天才ゆえの孤独を知る人物だったかも知れません。細密な描写と鮮やかな色彩の陰影で表現された画面のなかで、彼はその思慮深そうな眼差しを、そっと私たちに投げかけるばかりです。
★★★★★★★
ロンドン、 ナショナル・ギャラリー 蔵