鉄柵の向こうを食い入るように見つめる少女は、サン・ラザール駅を出てヨーロッパ橋の下を通過する列車に心を奪われているようです。傍らの女性は、少女にせがまれて同行してきた姉か母親…といったところでしょうか。しかし、それにしては、二人から楽しげな会話が聞こえてくる気配はありません。
何気ないようで、不思議な絵です。タイトルも「鉄道」でありながら、柵の向こうの白煙が、かろうじて列車の存在を暗示するばかりで、実体は全く見ることができないのです。画家は何を描きたかったのでしょう。主役の二人の女性でしょうか、白い煙でしょうか、それとも、列車の通り過ぎるその一瞬なのでしょうか。
鉄道は、産業革命後の西洋における最も重要な発明でした。人類は、それまでとは全く違う蒸気機関の力によって、飛躍的に文明を進歩させることに成功したのです。
画家たちもまた、鉄道を新しい画題として意欲的にとり上げるようになります。それでも、初期のころは駅や車内の人々を描いた風俗情景が主流でしたが、印象派の画家たちの世代となると、近代のダイナミズムそのものを表現する対象として、より直接的に描かれるようになりました。鉄道によって人々の行動範囲は格段に広がり、画家たちもまた鉄道を利用した旅によって、新しい主題を次々に発見していくことにもなったのです。
しかし、生粋の都会人であった作者のマネ(1832-1883年)は、機械文明の象徴のような鉄道を、飽くまでも都市の中の新しい情景として、明るい色調とマネらしい巧みさで描き上げています。そして、そこには画家個人の思い入れもあったようです。
マネは、ここに描かれているサン・ラザール駅から近いサン・ペテルスブール通りにアトリエを構えていました。そして、こちらを見ている女性はヴィクトリーヌ・ムーラン…代表作「オランピア」や「草上の昼食」のモデルを務めた人物です。ダンディで都会的なマネはいつも美しい女性たちに囲まれていましたが、ヴィクトリーヌ・ムーランは、彼が街を歩いているときに、モデルとしてスカウトしたのです。つまり、ここに描かれているのはみな、マネにとって、あまりにも馴染み深いものたちばかりだったのです。
しかし、このとき、すでにムーランは中年にさしかかっており、恋に破れて失意のうちにアメリカから帰国したばかりでした。やや疲れた表情も、そのためかもしれません。久々にヴィクトリーヌに再会したマネは、何よりも彼女のために、この作品を描いたような気がします。
ところで、マネの「オランピア」は、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」からインスピレーションを得たと言われています。ヴィクトリーヌ・ムーランの膝に抱かれた子犬がヴィーナスの足元にうずくまっていた子犬によく似ているのは、マネのちょっとした遊び心だったのかもしれません。
★★★★★★★
ワシントン、 ナショナル・ギャラリー 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎印象派
アンリ‐アレクシス・バーシュ著、桑名麻理訳 講談社 (1995-10-20出版)
◎印象派美術館
島田紀夫著 小学館 (2004-12出版)
◎西洋美術史
高階秀爾監修 美術出版社 (2002-12-10出版)
◎西洋絵画史who’s who