謎の多い作品です。この女性はだれ? 犬や鳥、それに鈍く光る甲冑はどういう意味? そして、遠方で語り合う3人の男たちはどういう人たちなのでしょう。興味は尽きません。
奇妙な円盤の中央に座る女性は、盲目の吟遊詩人ホメーロスによる叙事詩『オデュッセイア』に出てくる魔女キルケであると言われてきました。キルケは、たぐいまれな美貌を持つ魔性の女でした。太陽神ヘリオスの娘に当たります。彼女は毒薬の知識に通じ、気に入った愛人に飽きると相手を獣に変えてしまうことで恐れられた魔女なのです。ただし、ホメーロスはあくまでも彼女を女神と呼んでいます。
一方、これはキルケではなく、詩人アリオストの叙事詩『狂乱のオルランド』に登場する魔法使いメリッサであるという説もあります。メリッサは、植物や石や動物に変えられたキリスト教の騎士たちを救った善なる魔法使いです。ですから、この女性のゆったりと優雅な様子、脇にくつろぐ犬や鳥、甲冑から、今ではメリッサ説が有力となっているようです。
謎の女性は灯火を手にし、木に縛られた小さな人像を見詰めています。彼らは人間に変身しかけているように見えます。どこかブードゥー教の人形も連想されます。
作者のドッソ・ドッシ(1490年頃-1542年)は、16世紀前半の北イタリアを代表する画家の一人です。ジョルジョーネやティツィアーノの影響を受けながらも、明るく輝くような多色彩の効果を探究していきました。
1520年代からフェッラーラの宮廷画家となりますが、最もドッシらしさが発揮されたのは、公的で大規模な祭壇画よりも、宮廷に集う人々のための個人的な神話画や寓意画でした。この作品は、そんな彼の176×174㎝の豪奢な代表作なのです。
この作品の美しさは、女性が身につけた華麗な衣装もさることながら、その後ろの風景にあるかもしれません。ヴェネツィア派を思わせる生き生きと遠方まで見渡せる景色の、何と見事なことでしょうか。独自の色彩による光と陰影の描写、安定的な構図、あくまでも穏やかな詩情からは、ジョルジョーネの強い影響を感じずにはいられません。
そして、フェッラーラ派の持つ秘儀的な魅力は、この画面には満載です。こうした不思議な雰囲気は、ドッシにとても似合います。彼の生み出した牧歌的で幻想的な絵画世界は、彼独特のものでした。
フェッラーラ宮廷といえば、コズメ・トゥーラなどに代表される寓意的奇想の美術で知られています。しかし、ドッシの作品は決してエキセントリックには流れず、あくまでも自然主義的なものであり続けました。
★★★★★★★
ローマ、 ボルゲーゼ美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社(1989-06出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳 日本経済新聞社 (2001-02出版)
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄著 小学館(2008-07 出版)