聖人たちに囲まれ、台座に立つ聖母はしっかりと天を見上げ、右手で腹部を気づかうように押さえています。天からは聖霊の鳩が舞い下り、この瞬間、神の子たるキリストが人類救済のために、少女マリアの中にイエスという肉体をまとって出現しました。これが、新約聖書における「受肉」です。
神は旧約の時代から、人が目で見ることのできない実存でした。しかし、天地創造からの長い歴史の中でたった一度、33年間だけ神が人間たちの目に見える姿であらわれた時期があったのです。それがイエス・キリストであり、神の受肉という奇跡だったというわけです。
この作品は、いわゆる「受胎告知」の図です。純真な少女マリアが聖霊によってイエスを身ごもると告げられ、マリアもまたそれを受け入れる瞬間です。しかし、一般的な受胎告知とは違い、大天使ガブリエルの姿がありません。ただ、聖母の頭上、作品の中央に、まるでとどまるように翼を広げる白い鳩が描かれ、それが神の使者たる聖霊なのです。彼の存在のおかげで、私たちはこの作品のテーマを知ることができます。そして、この鳩から放たれる神秘の光によって、聖母は怪しいまでの輝きを見せているのです。
通常の「受胎告知」は多くの画家によって描かれていますが、「受肉」というテーマは実はあまり見かけません。それだけ華やかさやドラマ性に欠ける画題なのかもしれません。それでも、あえてこのテーマを選び、イタリア・ルネサンスを代表する206×172cmのみごとな板絵に仕上げたところに、画家の特異性を見てとることができるのかもしれません。
作者のピエロ・ディ・コジモ(1461/62-1521年)は、15世紀から16世紀への過渡期のフィレンツェ派の中でも、奇矯な個性を持った画家と言われています。ヴァザーリ(1511- 1574年)が著した『美術家列伝』には、固ゆで卵しか食せず、教会の鐘の音を嫌っていた、などという記述があるといいますから、もしかすると相当な変わり者だったのかもしれません。
コジモ・ロッセリの工房に入り、師のもとでシスティーナ礼拝堂の装飾にも参加しています。しかし、新しい文化に強い興味を持っていたピエロは、レオナルドのスフマート技法や、ルカ・シニョレッリ、フィリッポ・リッピらの影響を受け、当時では珍しい動物画も描きました。さらに原始の人間を扱った神話画や歴史画なども制作し、風変わりな画家として知られました。そうしたピエロの作風のためか、彼の作品は実はあまりイタリア国内には残っていません。
画面向かって左側で、純潔を示す白い百合を持つ聖フィリッポ・ベニッツィはマリアの下僕修道会(セルヴィ会)の指導者となった人物です。修道会入会以前は医師だった彼は、悪魔憑きの女性を癒したり、癩者にシャツを分け与えたエピソードでも知られています。聖母マリアの悲しみに関する瞑想をみずからの行としていました。
さらに、その横で女性的な雰囲気で聖母の腹部を指さしているのは福音書記者聖ヨハネです。救い主の到来を予言しているようです。
そして、背景の切り立った二つの山には、左に「キリスト降誕」の図、右に「エジプトへの逃避」が描かれ、これからイエスとともに歩む苦難の道のりが暗示されているのです。
★★★★★★★
フィレンツェ、 ウフィッツィ美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)
◎NHK フィレンツェ・ルネサンス〈6〉/花の都の落日 マニエリスムの時代
日本放送出版協会 (1991-10-10出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也訳 講談社 (1989-06出版)
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄著 小学館(2008-07 出版)